ベンサムの功利主義とコーヒーの美味しさ(後編)

経済学 その他

はじめに

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前回〈ベンサムの講師主義とコーヒーの美味しさ(前編)〉では、ベンサムという人、そして彼が提唱した功利主義とその主張である最大多数の最大幸福についてお話ししました。

この後編では、功利主義を使って、コーヒーが美味しいについて論じたいと思います。

コーヒーが美味しいを功利主義的に考える

功利主義では、行為が個人に対してどんな「よい」がどのくらいあって、どんな「わるい」がどのくらいあるかを求め、関係者全員の「よい」と「わるい」を全部足し引きして合計を出せ、と言っています。ではその方法に基づいて美味しいということを考えてみるとどうなるでしょうか。

前提として、コーヒーが美味しいというのは社会全体で見れば幸福を増大させる要因になる、とします。社会全体にはさまざまなコーヒーがあり、それを飲用する人もたくさんいるのですが、あるコーヒーとある人の組み合わせをランダムに考えたときに、コーヒーを飲む前よりも飲んだ後のほうが平均して幸福は増大するということです。これがないとそもそもこの話が進みませんので、これはあるものとします。

ではコーヒーが美味しいと感じるメカニズムを、非常にざっくりですが考えてみます。

よく「五感」と言われますが、これはけっこう古い概念だそうで、現在ではこのような分類になっているそうです。

1.受容器が特殊化していないもの→だいたい体のあちこちで感じるもの
a)体性感覚
・皮膚感覚...触覚(さわった)、圧覚(押された)、温度感覚(熱い冷たい)、皮膚痛覚(切った、やけどした)
・深部感覚...深部痛覚(骨が痛いとか)
b)内臓感覚
・内臓痛覚(なんかおなかいたい)
・臓器感覚(胃が痛い)
2.受容器が特殊化したもの→特定の場所で感じるもの
a)味覚(舌で感じる)
b)嗅覚(鼻で感じる)
c)前庭覚(三半規管で感じる)
d)聴覚(鼓膜で感じる)
e)視覚(目で感じる)

美味しいというのは感覚ですから、コーヒーを飲んだときにそう感じるためには、このうちどれかに当てはまらないといけません。そこで、必要そうなものを抜き出してみます。

影響の大小はありますが、当てはまるのは皮膚感覚のうち、触覚と圧覚、温度感覚と、それから味覚、嗅覚、聴覚、視覚でしょうか。それぞれ例をひとつずつ出してみましょう。

  • 触覚は、フレンチプレスの場合には微粉がカップに落ちるため、口腔内にざらつきを感じる。
  • 圧覚は、カップを口につけたときにカップと接触した部分が押される感じがある。
  • 温度感覚は、コーヒーの温度に応じて、熱いとかぬるいとか冷たいと感じる。
  • 味覚は、甘い、しょっぱい、苦い、すっぱい、うまいの五つをそれぞれ感じることができる。ある深煎りのコーヒー苦いと感じる。
  • 嗅覚は、化学物質の発するニオイを経験上知りえたニオイになぞらえて感じることができる。ある浅煎りのコーヒーは柑橘系の匂いがする。
  • 聴覚は、サイフォンコーヒーでロート部にコーヒーが上がったときに出るゴボゴボという音を感じる。
  • 視覚は、カップに注がれたコーヒーは琥珀色として目に映る。

ということになります。もちろんそれぞれの項目でもっともっと色々と感じるものがありますし、そしてそれは必ずしもよいものだけではなくわるいものもあります。

したがいまして、功利主義的に言えば、とある個人がとあるタイミングで飲んだ一杯のコーヒーが美味しいとは、これらの各項目の「よい」と「わるい」の量を、個人であればその人の差し引きで考えればいいわけです。例えば、嗅覚では「レモンのような香り、これはプラス3、炭のような香り、これはマイナス5、ピーナツみたいな香り、これはプラス2……ぜんぶ差し引きすると嗅覚ではプラス4となった」というようなことです。

それができたなら、おなじタイミングでおなじ一杯のコーヒーをたくさんの人が飲めば、その人たちの「よい」と「わるい」の合計の差し引きで考えることができます。

そしてそれができたなら、いろんなタイミングでいろんなコーヒーをたくさんの人が飲むとして、どんなコーヒーならば「よい」と「わるい」の差し引きが最大になるか、ということを考えれば最高に美味しいコーヒーがどんなものかが特定できますので、そこを最大とした美味しさの尺度が決まるということになります。これが「最大多数の最大幸福」という、功利主義的な考え方でのコーヒーの美味しさということになります。

ところで、個人の主観に大きく依存し、なおかつ具体的な身体的刺激を伴わない「美味しさ」というものがありますが、それは比較が適当ではないなため、考えないこととします。例えば「めぞん一刻の響子さんがコーヒーメーカーで淹れるコーヒーこそ至高(幸福をもっとも増大させる)」と言ったところでそれを飲むことは誰にもできませんし、そもそもめぞん一刻を知らない他者との比較ができません。また実際に飲めるものだとしても「槍ヶ岳の山頂で飲むコーヒーより美味いものはない(幸福をもっとも増大させる)」と言ってもそれは登頂して苦労が報われたことや山頂からの眺めが絶景であることなどの、直接コーヒーから得られる影響以外の要素が大きすぎるので、やはり比較するに適当ではないため、考えないものとします。

最大幸福をどうやって計算するか

ベンサムも「それは無理」と考えていましたし、後々の功利主義を批判する人たちも口々に言ったのが、どうやって計算するか、計算できてもそれは本当に正しいのかということです。問題は、人数が膨大になれば集計が現実的ではなくなるし、そもそも点数をつけるというがその点数は誰にとっても同じように感じる基準があるのかと言われるとなかなか難しいといったところでしょう。

しかし、こう考えることはできます。「最終的にこれがこのくらい良かったんだから、理由としてはこれとこれとこれがこのくらいずつ考えられるだろう」という帰結主義※1的な考え方です。つまり、飲んだコーヒーの美味しさを仮に10とした場合に、その10の内訳は味覚のうち苦みが1と酸味が3で温度が3と嗅覚が2だった、と考えるわけです。苦みがいくつか、温度がいくつか、と先に考えるよりも、合計のほうを先に決めてしまって、内訳をあとから当てはめるというやり方のほうが、汎用性が高そうです。たくさんの人がコーヒーを飲んで「これはこのくらい美味しい、だから内訳はこれこれこうだろう」としたものの合計を出すほうが計算がラクです(内訳は各個人が持っているだけで集計には必要ありません。集計は個人の合計点、つまりこのくらい美味しいという点数だけを集計するわけですから)。これをめちゃめちゃたくさんのコーヒーについて試行すれば、どのようなコーヒーが点数が高いかわかります。それは、内訳として持っている項目について美味しさにはどのように寄与しているかがわかるということです。

そして最大多数も難しい

功利主義的にコーヒーの美味しさを決める手順ができました。

前提として、人間が感じることができる感覚でしか美味しさを感じることができないということ。そしてそれらの感覚を用いて感じた「よい」「わるい」の差し引きが個人の美味しさの点数になるということ。その個人の「よい」「わるい」の差し引きした点数をたくさんの人数(社会全体)で合計したものが、そのコーヒーの美味しさを一般化したものになるということ。最後に、たくさんの人がたくさんのコーヒーで試行したときに、その点数の分布が美味しさの各項目の度合いとなります。

ところで最大多数を考えるときに、ひとつ難しい点があります。最大多数とはつまり社会全体ですから、老若男女問わず全員ということです(コーヒーの美味しさという場合にはコーヒーを飲む全員で考えればいいでしょう)。その中には、どのようなコーヒーをどのようにどのくらいの頻度でどのくらいの愛好度でどのくらい必要としてどのくらい・・・といろんなタイプの人がいるので、それらの人の合計を考えるためには、程度と割合を考える必要があります。これも帰結主義的に考えて解決しましょう。つまり、このようなコーヒーはこのくらい支持される(好まれる)のだから、要素としてこれはこのくらい、これはこのくらい、これはこのくらい、支持される(好まれる)はずだ、というようにです。そこで問題が出てきます。個人の嗜好には差異が生じるので、美味しいコーヒーはその社会の構成員の好悪に依存してしまいます。ある国では苦いコーヒーが好まれるが別の国では苦いコーヒーは嫌われる、という場合に、それぞれの国で最大に幸福を増大させるコーヒーは別のものである、というわけです。また、その社会を少し小さめの範囲にすれば、例えば日本のとある社員食堂で提供するコーヒーを飲む集団、つまりその企業の社員ということになりますが、そこでの好悪は日本全体の好悪とやや違うでしょう。ですから、最大多数というものをどの範囲にするかという前提が必要であり、また最大幸福とは統計的にしか決まらないことになります。

(ある範囲の)最大多数の最大(コーヒーが美味しい)幸福とは

では功利主義的にコーヒーが美味しいとはどういうことか、まとめます。

大前提として、任意のコーヒーが任意の誰かに飲用された時、そのコーヒーが美味しい場合には社会全体の幸福は増大するとします。

そして功利主義的にコーヒーが美味しさを考えるには、最大多数とは任意の範囲を対象にすること、最大幸福は各個人の「よい」と「わるい」を差し引きしたものの合計とすることとします。「よい」と「わるい」は、具体的な受容器への刺激により判断できるものに限るとします。

そこに条件として、対象とする集団は任意の範囲あるので異なる構成員を持つ範囲をいくらでも設定することができること、絶対的な尺度を決めることが原理的に出来ないこと(相対的であること)、試行の回数を増やせば各要素の性質と量が統計的に求められることが、ある程度自明として考えられます。

これらから、次のような結論が導かれると考えます。

「功利主義的に考えれば、コーヒーの美味しさは、結果としてコーヒーを飲んだ人が感じた幸せの程度である。味覚や嗅覚などあらゆる身体的能力を駆使してコーヒーがどのくらい幸せをもたらしたかをしっかり計算すれば、そのコーヒーの個人的な幸せの程度が数値化できる。各個人の数値をぜんぶ足し合わせれば、そのコーヒーの社会全体で見たときの美味しさの評価ということになる。なお、どの要素がどのくらい合計に寄与しているかの割合は、コーヒーを飲む機会が増えれば増えるほど、精密に推定できる」


※1 帰結主義とは、行為の良し悪しを結果の良し悪しから決定することである。結果が幸福の増大とすれば、良い行為は幸福が増大するために存在し、また幸福が増大したのは良い行為があったからだ、と考える。ここで「全員の幸福量の総量が増大」が結果であるとすればその行為は良い行為であったと考えられる。

タイトル画像はWikipediaより

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